第六章

「…はぁ」
 ―もうすぐ二月に差しかかろうっていう日の午後、いつも通り私がアルバイトしてる喫茶店に里緒菜ちゃんがきてくれたんだけど、その彼女、席についてから何度もため息ついちゃってたの。
「里緒菜ちゃん、どうしたの?」
 そんな彼女を見たらもちろん心配になっちゃうし、いつもの紅茶を出してあげたときに声をかけてみた。
「いえ、別に何もないですよ」
 でも、あの子からはそっけないお返事。
「えぇ〜、でもため息ついてたし、どことなくだるそうにも見えるし…」
「だるいのはいつものことですから気にする様なことじゃないじゃないですか」
「そこでそう言っちゃうのもどうかなって思うんだけど、とにかく何かあったりしたなら話してみてね?」
「いえ、本当に何もありませんし…それに、他にお客さんいるんですから、ちゃんと仕事してください」
 こう言われちゃったらお仕事に戻るしかなくって、他のお客さんの注文を取りに行く。
「すみれさん、今日もお会いできて嬉しいです」
「あっ、うん、寒い中きてくれてありがと」
 お客さんはやっぱりあの子の通う学校の生徒が中心で、今話してる子は確かあの子のクラスメイトで時にはあの子と一緒に学校からお店へくることもある子だったはず。
「今日の里緒菜さま、いつにも増してアンニュイな雰囲気で、ですから今日は遠くから眺めることにしたんです。やっぱり里緒菜さま、素敵です…」
「まぁ、あの子が素敵なのは否定しないけど…」
 そういうことで、今日はあえて声をかけたりしないでみんな遠くから里緒菜ちゃんを見守ることにしてるそう…って、やっぱりみんなにとって特別なアイドルみたいな存在になってるあの子は今でもそういう扱いされることが多いみたいで、これじゃ学校で彼女に普通の友達を、っていうのは無理そうかも…。
「ところで、今日の里緒菜ちゃんがアンニュイになってるのって、どうしてか解る?」
 そんな雰囲気になってる、って気づいたなら、そのあたりも気づいてるのかな、なんて思ったりして。
「いえ、そこまではちょっと…何かあったんでしょうか」
 でも、返ってきたのはそんなお返事で…やっぱり大切な人のことは他人に頼っちゃダメ、ってことか。

「うっ、寒い…」
「里緒菜ちゃん、大丈夫? ほら、もっとこっちきて?」
 アルバイトが終わって、それまでお店でのんびりしてたあの子と一緒に外へ出たんだけど、さすがに一月末の日暮れは空気も冷たくってぎゅって腕を組んであげる。
「ありがとうございます…はぁ、こんな寒い中、外になんて出たくないんですけど」
「まぁまぁ、今日は里緒菜ちゃん、レッスン受けられるんだから…チョコバー食べて元気出して、ね?」
 そういうわけで今の私たちは事務所へ向かってて、私はチョコバーを差し出してあげる。
「まぁ、そのくらいの必要最小限の外出ならまだそう疲れませんしいいんですけどね…と、ありがとうございます」
 あの子がチョコバー受け取ってくれたから私も自分の分を手にする。
「でも、こんな寒い中をあんな…はぁ、本当に気が滅入ります。サク、サク…」
 重いため息をついちゃうあの子、チョコバー食べる姿も元気なさげ。
「ねぇ、やっぱり何かあったの? もしそうなら話してみてよ…サクサクサク」
 喫茶店にいたときもため息ついてたし、やっぱりそうとしか思えないよ。
「サク、サク…いえ、別に何にもありませんけど」
「ぶぅ、またそんなこと言って。つい今『こんな寒い中をあんな』って言ったじゃない…それで、何かあるの?」
「…そんなこと言いましたっけ?」
「もう、言ったよ? ため息ついちゃうくらい嫌なことあるなら、言ってみて?」
 もしかしたら力になれるかもしれないし、そうじゃなくっても話すだけで気が楽になるかもしれないものね。
「えぇ〜、どうしましょうか…センパイに言ってもどうしようもないことですし」
 なのに彼女はあんなこと言ってきて…。
「ぶぅぶぅ! 私は里緒菜ちゃんの恋人なのに、隠し事されたりするとさみしいよ〜」
「…はぁ、全くしょうがないですね。すみれのかわいらしさに免じて、話してあげます」
「むぅ〜、理由がおかしいんだけど、でも話してくれるならよかった…うんうん、話してみて?」
 本当は話すの気が進まなかったところを話してくれるんだから、しっかり聞かなきゃ。
「はい…実は、もうすぐ学校でマラソン大会があるんですよね」
 で、あの子はため息まじりに話しはじめたけど…ん?
「はぁ…全く、どうしてこんな寒い中、そんな疲れることしないといけないんでしょうね。信じられません」
「え〜と、里緒菜ちゃんがずっとため息ついてたのって…マラソン大会のこと考えて、なの?」
「そうですよ? 夏にあるよりはまし、とも言えなくはないんですけど、やっぱりこんなのあり得ませんよね…はぁ」
「…ふぅ、なぁんだ、そんなことだったんだ」
 深刻そうにため息つく彼女だけど、一方の私は安堵のため息ついちゃう…だって、もっととんでもないことだったらどうしよう、って思ってたんだもん。
「そんなこととは何ですか。そうですよね、センパイは実際に走ったりしないんですから関係ないですものね」
「わっ、えと、ごめんねっ?」
 いけないいけない、彼女にとってはものすごく気の重くなる問題なんだよね。
「でも、マラソン大会とか、私の学生時代にもあったっけ…懐かしいなぁ」
 そして、確かに楽しいイベントってわけじゃないこともあって、里緒菜ちゃんと同じ状態になっちゃってる子もいたっけ。
 そう思うと、里緒菜ちゃんも学校のイベントを気にする学生なんだな、って微笑ましくなっちゃう。
「懐かしい、って…よくそんな嫌なイベントをいいことみたいに思い返せますね。もうとっくに終わった人の余裕ってやつですか?」
「いや、私は別にそこまで嫌じゃなかったから」
 そりゃ、さっき彼女も言ったみたいに夏にあったらどう感じてたかってなるけど、今の時期なら走るのもそう苦じゃないものね。
「はぁ、信じられません…けど、そうですよね。センパイは自分から朝にジョギングしたりしてる人ですし、そのあたりの感覚が私と全然違うんでしょうね」
 う〜ん、朝のジョギングはじめたのは声優になってからだったんだけど、でも学生時代でも部活で外を走ったりもしてたし、里緒菜ちゃんよりは余裕あったのかな。
「はぁ…とにかくそういうわけで気が重いんです。もう休んじゃいましょうか…その日に仕事が入ったりするといいんですけど」
「…もう、里緒菜ちゃん?」
「冗談ですよ…はぁ」
 私の視線に彼女はそうお返事してくるけど、あそこまで気が重そうなのは放っておけないかも。
 かといって、仮にも学校行事をサボっちゃうとかそんなのダメだし、じゃあどうすれば…。
「…あ、じゃあしばらく私と一緒に走ってみる、とか?」
「…は? いきなり何を言うんですか?」
 私の思いつきに、彼女は意味が解らないって感じの声をあげちゃう。
「うん、本番までに身体を慣らしておけば楽になるんじゃないかな、って」
「はぁ…そんなの、嫌に決まってますじゃないですか。結局、走る日が増えるだけのことですし」
「えぇ〜っ、ダメかなぁ?」
「全く…そういうこと言ってきそうでしたから、センパイには言いたくなかったんですよ」
 あぅ、今度は呆れたって感じのため息つかれちゃった。
「うぅ、でも、そうしとけば本番のときちょっとでも楽になるって思うんだけどなぁ。それに、体力つけるっていうのは声優の仕事する中でも結構大切なことだし」
「えぇ〜…そうでしょうか? 完全に否定はしませんけど、走るまでする必要は…」
「うんうん、そうだって。そういえば、麻美ちゃんも体力つけるために夏梛ちゃんとジョギングしてるっていうし、里緒菜ちゃんもどうかな?」
 去年の春は一緒にお散歩したけど、一緒に走るのも楽しそう。
「…丁重にお断りします」
 でも、あの子から返ってくるのは予想通りっていったらそうだけどつれない言葉。
「えぇ〜っ、夏梛ちゃんと麻美ちゃんみたいに一緒に走ろうよ〜」
「そんなめんどくさいことはしません。だいたい、その二人が体力つけるのはアイドルもしてるからで、そんなことしない私たちには必要ありません」
「…あぅ、そっか、残念だよ」
 走るってなったら朝か彼女の放課後になっちゃうし楽じゃないのも確かだから無理にとは言えないよね…。
「…何です、そんなに私に走ってほしかったんですか?」
 自分でも気づかないうちによっぽどしゅんとしちゃってたのか、呆れた様子で彼女にたずねられちゃう。
「えっと、うん、一緒に走ったら楽しそうだな〜…なんて」
「はぁ…我ながら甘すぎるとは思いますけど、しょうがないですね」
 あれっ、この反応って、もしかして。
「マラソン大会が終わるまで、それとセンパイも一緒に走ってくれるんでしたら、走ってあげなくもありません」
「わぁ、ほんとにっ? うんうん、もちろんそれでいいよっ」
 それまでの間、私もこの町を離れる様なお仕事は入ってないから大丈夫だね。
「…ただし、その代わりすみれが私の言うことを何でも一つ聞いてくれること。これが条件です」
 なるほど、そうきたか…。
 里緒菜ちゃんのお願いならあんなこと言われなくっても何でも聞いてあげたくなるんだけど、とにかくもちろん…。
「うん、マラソン大会までちゃんと走り切ったらいいよ」
 まぁ、このくらいの条件なら入れても入れなくっても変わらないと思うけど、一応。
「解りました、それでいいです。さて、何をしてもらいましょうかね…」
 そうして微笑む彼女だけど、何をさせようとしてるんだろ…ちょっと不安かも。
 でも、本当はとっても嫌だってことを彼女にさせちゃうわけなんだから、私も何でもしてあげなきゃ。


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