喫茶店でチョコバーを渡した子は、それ以降姿を見せることはなかった。
あの日は遠出か何かをして疲れてたから立ち寄ったみたいだし、それも当たり前なのかな…元気になってくれているって信じるだけ。
「あら、まぁ、いよいよ来週、新人さんがくることになってますよ〜」
そんなことがあってからもう何日も過ぎた日の事務所、打ち合わせを終えたところで如月さんがそんなことを言ってきた。
そっか、二月も半ばを過ぎたけど、いよいよ私も先輩になるんだ…って、ん?
「あれっ、如月さん、その新人さんがくるのって、来週なんですか?」
「あら、まぁ、そうですけど、それがどうかしましたか? あっ、ちなみに、灯月さんたちがくるのは三月中旬くらいですよ」
あっ、如月さん、また「灯月さんたち」とか複数形で言ったりして、やっぱり気になっちゃうんだけど、今はそれより重大なことがある。
「私、来週から東京で収録だったんだぁ…はぅっ」
気が抜けちゃって思わず机の上に突っ伏しちゃったけど、つまりそういうこと。
もちろん日帰りなんてことはなくって、しばらく向こうで泊り込みになっちゃうから…あぁ、せっかくの後輩をお出迎えできないなんて、とっても残念。
「あら、まぁ…でも、こればかりはどうしようもありませんから、気を落とさないでくださいね?」
「…そ、そうですよね、こんなことで元気なくしちゃうなんて、私らしくないし」
何とか気を持ち直して身体を起こし、そしてチョコバーを口にする。
…うん、大丈夫、元気出た。
「じゃあ如月さん、ちょっとスタジオ借りていいですか?」
「あら、練習でしょうか…もちろんいいですよ?」
お礼…っていうわけじゃないけど如月さんにチョコバーを渡して、スタジオへ入った。
スタジオは防音された空間だからとっても静か…深呼吸した私の息遣いだけが耳に届く。
「うんうん、残念がっててもしょうがないし、ここはしっかり練習練習っ」
声を出して落ち込みそうな気持ちを発散…なんて不純な動機ってわけじゃないんだけど、とにかく練習に集中。
「ん…すみれちゃん、練習頑張ってるね」
「…って、んひゃっ!」
と、いきなり背後から声がかかってきたものだから、びくっとしちゃった。
「わ、驚かせちゃったみたい…ごめんね? でもそんなに練習に集中して、えらいねっ」
「いえ、そんな、センパイが謝ることじゃないですし、えらくもないですから…!」
振り向いた先にいたのは梓センパイで…うぅ、全然気づかなかった。
「センパイ、どうしたんです? あっ、もしかしてスタジオ使います?」
「ううん、すみれちゃんが練習してるってむったんから聞いたから、様子を見にきたんだよ?」
センパイが私の練習なんて気にしてくれるなんて、嬉しいなぁ。
「すみれちゃん、来週から東京で収録だっけ…無理しないで頑張ってね」
「はい、ありがとうございます…でも、来週くるっていう新人さんに会えないのは、やっぱり残念かなぁ」
あっ、もう、私ったらまたこんなこと言って…自分で言うのも何だけど、困ったものだ。
「そっか、事務所の新人さん、来週からくるんだ。すみれちゃん、新人さんがくるの、そんなに楽しみなの?」
「はい、それはもちろん。先輩として色々力になってあげられたらいいな〜、って」
お仕事の上ではライバルになるのかもしれないけど、やっぱりこの気持ちは変わらない…と、そんな私へ、センパイは何やら微笑ましげな視線を向けてきてる気がする?
「…セ、センパイ? どうかしましたか?」
「うん、やっぱりすみれちゃんはえらいね、って思って」
センパイ、そう言って微笑んでくる。
「えっ、えらいって…そんなことないです。当たり前のことだって思いますし」
「当たり前…でも、僕は後輩さんができたとき、そこまで考えられてなかったよぉ…」
…って、センパイがしゅんとしちゃったっ?
「わわっ、え、えと、センパイ、これ食べます?」
「あ…うん、ありがと、いただくね」
慌ててチョコバーを差し出すとセンパイに笑顔が戻って…よかった。
「それに、センパイは私と違うんですから、そんなこと考えなくっても全然いいと思いますし」
「ん…そ、そう、なの?」
チョコバーに口をつけながら首を傾げたりして、何だかかわいい。
「はい、センパイは目標にしたい、って感じられる人ですから、ただ普通にしてるだけでいいんです。でも、私はまだまだそこまでの実力はないから、せめてそういう力になれたらいいな、っていう面もありますから」
「わ…もう、すみれちゃん、それは何だかはずかしいな」
顔を赤らめちゃったりして、やっぱりかわいい。
「それに…それなら、すみれちゃんだって特別なこと何にもしなくっても後輩のいい目標になるって思うよ?」
「…へ? そ、そう…ですか?」
「うん、だってすみれちゃん、とっても頑張りやさんなんだもん。練習とか自分でたくさんして…えらいえらい」
わっ、またセンパイになでなでされちゃった…!
何にもえらいことなんてないんだけど、とにかく恥ずかしい。
「じゃあすみれちゃん、今日はこれから僕と一緒に練習、しちゃう?」
と、センパイが微笑んでそんなことを言ってくるものだから、もちろんうなずく。
アニメとかの収録となるとやっぱり東京とかで行われることが多くって、そういうときにはもちろんこちらから向かうことになる。
お仕事の内容によってはマネージャの如月さんがついてきてくれることもあるけど、今回の場合は私一人で行って、そしてスタジオに足を運んでる。
さらに今回はたまたまいくつかの作品の収録が重なったから一週間以上の滞在になった。
今回収録の作品たち、ゲームのほうだと結構メインの役になってるし、これだけの作品に出演させてもらえるっていうのはとってもありがたいことだし、嬉しいことでもある。
他の声優さんと言葉を交わす機会もあって…私が学生時代の頃からご活躍されてるかたと言葉を交わしたときにはやっぱり緊張しちゃったし、そうじゃなくっても皆さんさすがだからいい刺激にもなる。
そんな収録はほぼ毎日あるんだけど、時にはまとまった時間が空くときもあって、そういうときはスタジオのお手伝いなんかをさせてもらったり、あとは東京に遊びに行く…じゃなくって、次の収録に備えての練習。
練習、っていってもさすがにスタジオは借りられないし、東京の地理にも詳しくないから適当な場所を探すのも難しい…なので、そういうときはカラオケボックスを借りてみる。
歌わないからちょっと邪道な使いかたなのかもしれないけど、そこなら大きな声を出したりしても大丈夫だもんね。
「ふぅ、今日もちょっと疲れたかも」
そんな感じで、泊まってるホテルの小さなお部屋に戻ってくる頃にはちょっとぐったり…そのままベッドの上に倒れこんじゃう。
疲れはするけど、やっぱり収録のお仕事自体は楽しいんだよね…。
「あ…そういえば、事務所のほうに新人さん、きたのかなぁ」
ベッドで仰向けになって天井を眺めながら、ふとそうつぶやいた。
如月さんの話だと私がこっちにきてる間にくるそうだから、きっともうきてるんだよね。
どんな子かな…戻ったら会えるって思うし、楽しみ。
「私、いい先輩になれるかな…」
頼れる、って思ってもらえる存在になれたらいいな…と、そんなことを考えてるうちに意識は薄れていった。
東京でのお仕事もようやく終わって、町に帰ってくることができて。
その日の帰りは夜になっちゃったから、久し振りな自分のお部屋でゆっくり休んで、今までの疲れを取っちゃう。
「あっ、如月さん、おはようございますっ」
翌日、すっかり疲れも取れて元気に事務所へ…さっそく如月さんへ挨拶。
「あら、まぁ、山城さん、おはようございます。お久しぶりですけど、お元気そうで何よりです」
「うん、そういう如月さんも、お元気そうでよかった」
変わらないにこにこした様子を見ると、やっぱり安心しちゃう。
「まぁ、それで、お仕事のほうはどうでした?」
「うん、一応みんな無事に終わったよ?」
東京であったお仕事について、一通り報告。
「あら、まぁ、無事に終わって何よりでした…お疲れさまです」
「はい、ありがとうございます。あ、それで、私のいない間に、事務所に新人さんはきましたか?」
東京にいた間ずっと心の中につかえていたことをたずねてみた。
「あら、まぁ、もちろんいらっしゃいましたよ」
「わぁ、そうなんですか。今はいますか?」
ようやく会えると思ってちょっとわくわくする…けど。
「あら、まだきていません…というより、今日は多分こないんじゃないでしょうか」
「…へ? あ、あぁ、そっか…そう、ですよね」
如月さんのお返事に一瞬間の抜けた声が出ちゃったけど、すぐに納得した。
確かに、事務所なんて特に予定のないときにはこないのが普通で、何もおかしくない…むしろ特に用事がなくっても毎日顔を出してる私がおかしいのかも。
「う〜ん、それじゃ今日は会えないんですね…楽しみにしてたのに、残念」
「あら、まぁ、でもそのうち会えると思いますよ」
…うん、如月さんの言う通り、同じ事務所の子なんだから、また近いうちに会えるよね。
よしっ、それじゃ気分を切り替えて、今日も頑張っていこっ。
(第2章・完/第3章へ)
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