森は人が歩くぶんには問題ありませんけれど馬車で入ることはさすがに無理ですので、馬車は森の外へ置いていくことになりました。
「帰りに困ってしまわない様に、道しるべをつけておきましょう」
リセリアは持っていたナイフで木に少しだけ傷をつけていきます。
どうしてナイフなんて持っているのかといえば、念のための護身用にです。
もっとも、幼き日はちゃんと両親のところに戻ることができましたし、それにもし別の場所に出てもそこから馬車を探せばいいだけのことです。
この森の中のどこかにあの場所があるはずなのですけれど、幼き日に一度、それも偶然によってたどり着いた場所へまたたどり着くことができるのか…。
そうして、どのくらい歩いたでしょうか…不意に目の前の森が開けます。
「あっ、ここは…」
思わず足を止めてしまうリセリアたちの目に入ったのは、森に囲まれた少し開けた場所に湧く、小さな泉…。
「あのときと、全く変わっておりませんね…」
幼き日の記憶…あの日も今日みたいな穏やかな天気の中でこの泉を見つけて、きれいだと感じたのでした。
「静かでいい場所ですわね…もしかして、ここがリセリアさまとその人とが出会った…?」
「はい、まさにこの場所です」
夢にまで出てきた、この場所…やっと、もう一度自分の足でやってくることができました。
あれからずいぶんと長い時がたってしまいましたけれど、リセリアは再びやってまいりました。
「ここまでやってこれたのも、リーサさんのおかげです。本当にありがとうございます」
「そんな、わたくしはただリセリアさまの願いが叶えばと思ってしただけのことですから、何もお気になさることはありませんわ」
でも、リーサさん、そしてラティーナさんの力がなければ、リセリアはずっとここへくることはできなかったでしょう…。
お二人の力を借りてやってくることのできた、リセリアにとっての運命の場所…改めてよく見てみます。
陽の光の反射する、穏やかな水面の泉…歩み寄って眺めてみますけれど、とても透き通った水です。
「何だか、精霊でも出てきそうな場所ですわね」
人の足が踏み入れられている様子のない、清らかな泉…確かに、そんな雰囲気です。
「けれど、精霊も人間も、わたくしたちのほかには誰もいないみたいですわ…」
「ふふっ、まさかここへやってきた瞬間に運命の人とお会いできるとは、リセリアも思っておりません…まずは、ここへこられただけで満足です」
あのかたと巡り会えた場所…二人が同じ時を過ごした、唯一の場所ですから。
「リセリアさまのお気持ち、解りますわ…」
二人、しばらくの間目を閉じて、かすかに揺れる木々のざわめきを聞きながら物思いにふけります。
「…リセリアさま、おなかはすいていらっしゃいませんか?」
と、しばらくしたところでそんな声をかけられました。
「そういえば、もうお昼くらいの時間ですね…少しすいてしまいましたけれど、食事はできませんよね…」
「いえ、ちゃんとお弁当を作って持ってきておりますわ」
そういえばリーサさんは荷物を持ってきておりましたけれど、そういうことだったのですね…さすがに用意がいいです。
さっそく泉のそばへ腰掛けて、お弁当を広げます…さすがリーサさん、とてもおいしそうです。
「そういえば、ラティーナさんの食事は…」
「そちらもお弁当を用意してきましたから、心配いりませんわ」
う〜ん、やはりさすがとしかいいようがありません。
「それでは、いただきましょう」
「はい、いただきます」
こんな自然の中で食事をするのも、あの日以来となるのですね…とってもおいしいです。
「よろしければ、リセリアさまと運命のかたとのお話を聞かせていただけませんか?」
そういえば、まだリーサさんにも詳しいことは言っておりませんでした。
「はい、もちろん構いません。よろしければ聞いてください」
―幼き頃、リセリアは両親などとともにピクニックでこの森の外へとやってきておりました。
リセリアはふと好奇心から森の中へと入り、偶然この泉へとたどり着きました。
今日と同じ、誰の姿もなく静かな場所…。
けれど、そこへ一匹の狼が現れ、リセリアへと襲いかかってきそうになったのです。
「もしかすると、そこへ運命のかたが現れて…?」
「はい、リセリアのことを…たすけてくださったのです」
剣を構えて狼と対峙するあのかたの雄姿…今でもきちんと覚えています。
「まぁ、それはまさしく運命の王子さまですわ。そんなかたに巡り会えるなんて、リセリアさまがお羨ましいですわ」
「うふふっ、ありがとうございます」
思えば、その瞬間からリセリアはそのかたのことを…。
「その王子さまは、どんなかただったのでしょう…?」
「はい、そうですね…」
と、そこでリセリアは固まってしまいます。
「リセリアさま、どうかなさいましたか?」
「リ、リーサさん、あれ…」
リセリアの言葉につられてリーサさんも同じ方向へ目を向け…そして、そこにいたものを見て固まってしまいました。
リセリアたちの視線の先…森の中からこちらを見る何者かの姿。
ただの人でしたらそこまで驚いてしまうこともなかったはずですけれど、そこにいたものはただの人というわけではありませんでした。
背の高さはリセリアたちとあまり変わらない、二本の足で立つ生物…ですけれど、その皮膚は真っ黒です。
鋭い爪や牙を持ち、毛の一本もないそれの頭部には不気味に光りこちらを見ている目。
明らかに人とは違う、異形の者…。
「これは、あ…悪魔?」
こことは異なる世界に存在するという、邪で強い力を持った生物。
はるか昔にこの世界に干渉をして、人間と大きな戦いを繰り広げたという伝説も残っております。
今のこの世界にはそのときの生き残りとされる悪魔が少数存在するとのことですけれど、目にすることはまずない…そう、そのはずなのです。
でも、今のリセリアたちの先にいるのは、知能は低そうなものながら悪魔としか思えないもの…。
とにかく、今はこの状況を何とかしなくてはいけません。
「あ、あなた、リセリアたちに何か…? 何もないのでしたら、リセリアたちは失礼しますので…」
…背を向けたら即座に襲い掛かってくる。
直感的にそう感じましたから、怖いのを我慢して悪魔へ目を向けたまま声をかけますけれど、相手には全く伝わっていないみたいで、不気味なうなり声をあげながらゆっくりとこちらへと歩み寄りはじめてしまいます。
「リ、リセリアさま、ここはわたくしが…っ」
後ずさりをする二人ですけれど、リーサさんが震えながらもリセリアの前へ出ようとします。
囮になってリセリアを逃そうというのでしょうか…でも、そんなことさせられません。
「こ、これ以上近づくと、痛い目にあいますよっ?」
すっと護身用のナイフを手にしますけれど、相手の動きは止まりません。
こ、こうなったら、一か八かです。
「リーサさん、下がってください…はっ!」
手にしていたナイフを素早く投げつけます。
多少の訓練はしていたものですから、ナイフはまっすぐに…悪魔の頭に突き刺さります!
黒い血しぶきを噴き出しつつ、身の毛もよだつ絶叫をあげる悪魔…恐ろしい光景です。
「や、やりました…?」「さ、さすがはリセリアさまですわ…!」
けれど、喜びもほんのつかの間…額にナイフが突き刺さったまま、悪魔は絶叫をあげながらこちらへ駆け出してきたのです。
地面を激しく揺らし、そして鋭い爪を持つ手を振り上げて。
…そ、そんな、あれでまだ動けるというの?
リセリア、それにリーサさんも、衝撃と怖さでその場に立ちすくんでしまいます。
死を運ぶ様な叫びをあげ、突進してくる悪魔…。
「リ、リーサさんっ」「リセリア、さまっ…」
絶望を覚悟し、二人手を握り合って目を閉じてしまいます。
次の瞬間には、リセリアたちは殺されてしまうでしょう。
こんなときに思ってしまうのは、運命や奇跡。
「た、たすけてくださいましっ…」
ぎゅっと目を閉じて願ったのは、運命の人が現れてたすけてくださること。
もちろん、現実にはそんな夢みたいなことは起こるはずはない、と理解しています。
けれど、どうしてもそう願わずにはいられませんでした。
そして…リセリアたちに振り下ろされるはずだった爪はなぜか届かず、断末魔とも取れる悪魔の絶叫がすぐそばから届いたのです。
何かあったのか解らずゆっくりと目を開けてみると、すぐ目の前にはあの悪魔の姿。
けれど、その胴体は腰のあたりで真っ二つに分かれてしまっていたのです。
血しぶきをあげることもなく、その姿は灰となっていき…その灰も風に流されて消えてしまいました。
リセリアが悪魔の額に投げつけたナイフだけが、すっかり錆びついた状態で地面へと落ちます。
「一体、何が…」
リーサさんと二人、手を握り合ったまま呆然としてしまいますけれど、すぐに気づきました…リセリアたちの先に、誰かが立っていることに。
全身を漆黒の鎧に包み込んだ、長身の人…その手には、一振りの剣が握られておりました。
「あ、あなたは…」
その姿を見た瞬間、リセリアは固まってしまいます。
だって、そのかたこそ…。
…これは、奇跡でしょうか。
奇跡でないのでしたら、運命による必然…そう考えたほうが、よいのかもしれません。
(第1章・完/第2章へ)
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