第一章

 ―もう、あれは何年前になるのか。
「おねえちゃん、おねえちゃん」
「ん、どうしたの?」
 まだ小学生だった頃の私…声をかけてきたのは、もっと小さな女の子。
「えっと、みずは、また弾くから…いっしょに、いい?」
「うん、もちろんいいよ」
「ありがとう、おねえちゃん」
 無邪気でとってもかわいい笑顔…そんな顔を見せられたら、断ることなんてできるわけないじゃない。
「んしょ、んしょ…」
 そんな女の子が持ってきたのは、おもちゃのピアノ。
「じゃあ弾くね、おねえちゃん」
 でも、そう言って彼女の指が鍵盤に触れると、おもちゃはおもちゃとは思えない旋律を奏で出す。
 やっぱり、すごいわ…。
「…もう、おねえちゃん?」
「あ、ご、ごめんなさい」
 ちょっとふくれた顔を向けられたけど、それもかわいい。
「えっと、じゃあ…」
 再び奏でられる旋律に、私は歌を乗せる…。

「…ん、んっ?」
 ―次に耳に届いたのは、おもちゃのピアノの音ではなくって、雀たちのさえずりだった。
 目を覚ますと、視線の先には見慣れた天井…。
「あぁ、夢…ね」
 二度と戻らない、平穏な日々の夢。
 あの頃に戻れたら…いえ、そんなことを考えるのは不毛ね。
 あの子とはもう、会うことなんてできないのだから。
 気を取り直して、ベッドから降りる。
 今は朝の七時前…本来ならかすかなそよ風に揺れるカーテンを開けるところなのだけれど、私はふとそれとは別の方向へ目をやる。
 この部屋、落ち着いた内装なのは壁のちょうど中心にある扉から見て左側、つまり私のいるほうだけで、もう片方は全く別の世界となっている。
 乱雑に積まれたCDや雑誌などで足の踏み場すら危うい…全く、わずか半日でこんなにしてしまうなんて、呆れ果ててしまう。
 そこをこんなふうにしてしまっている張本人は、ちょうど私のベッドと対称の位置にあるベッドの上でまだ眠っていた。
「全く…ほら、朝よ? 起きなさい?」
「むにゃ…暑い、もうちょっと…」
 一応声をかけてみたけれど、寝言なのかよく解らない返事が返ってきて起きてこない。
 …ま、いいわ、そのうち彼女の枕元にある目覚まし時計が起こしてくれるでしょうし。
 ということで彼女のことは放っておいて、私は着替えを済ませることにした。

 さっと朝食も済ませ、私は部屋、そして学生寮から外へ出た。
 まだ登校時間にははやいし、今日はさすがに部活の朝練などもないみたいだから、学校へ向かう子の姿はまだない。
「ふぅ…暑いわね」
 そんな外に出たところで空を見上げると空は快晴、耳には耳障りなほどセミの鳴き声が届く。
 仕方ないか、九月なんてまだまだ夏だものね。
 あんなこと、こんな状況の中であまりしたくはないのだけれど、仕方ない。
 きれいに整備された並木道を一人歩き、学園の正門からまっすぐにのびる並木道の脇に立つ。
 この並木道は正門から敷地内の中心に建つ講堂に続いていて、その講堂からさらに三方向の並木道が初等部、中等部、高等部へとそれぞれ続いている。
 あと、入寮者も学生寮の場所の関係でここを通ることになっている。
 つまり、私がこの様なところに立って何をしようとしているのか、もう解るわよね。
「あ、草鹿先輩、おはようございます」
「ええ、おはよう」
 一人の少女が挨拶をしながら元気よく講堂のほうへと歩いていくのを見送ったのを皮切りに、少しずつここを歩く、制服を着た少女たちの姿が増えてきた。
 さすがに日差しがきついので日陰に立ちつつも、そんな皆を見送っていく私。
 そう、私はここに立って、登校する生徒たちの服装に乱れがないかなどをチェックしているの。
 といっても、この学園でそうした違反をする人なんてまずいないから、ただ暑い思いをしているだけなのかもしれないけれど、それでも油断は禁物ね。
 通り過ぎていく生徒たちは私がここに立っているのが日常風景になっているということもあり、だいたいは軽く会釈をして通り過ぎ、中には素通りをしていく、あるいは避けていく人もいる。
「おはようございます、お姉さま」
「ええ、おはよう」
 そんな中、元気よく挨拶をしていくのはだいたいが初等部の生徒。
 同じ学校の敷地内を小学生から高校生までが一緒に登校するというのも、なかなか珍しい風景かもしれないわ。
 そして、挨拶をしてくれる初等部の女の子たちは微笑ましく、まるで今朝見た夢の…いけない、またあのことを思い出してしまった。
 気を取り直して生徒たちの様子をチェックしていくけれど、みんな特に問題なし…不審者などの姿ももちろん見られない。
 今年の入学式の日にはあまりにもボーイッシュな高等部新入生を不審者として声をかけたりもしてしまったけれど、この様子だとそんな失敗もしようがない。
 そうしているうちに道行く生徒たちの姿も減ってきて、腕時計に目をやるともうすぐ始業のチャイムが鳴る時間になろうとしていた。
 …さて、今朝はこのくらいかしら。
「あっ、彩菜〜っ!」
 その場を後にしようとしたとき、少し遠くから私を呼ぶ声が耳に届いた。
 目を向けると、正門の方角から一人の少女がこちらへ向け駆けてくるのが見えた。
 …全く、朝からぎりぎりの時間ね。
「彩菜〜…んぐっ!」
 そのままの勢いで抱きつかれてしまいそうだったところを、腕をのばしてその少女の頭を押さえることで何とか防いだ。
「全く、朝から何をしようとしているの」
「何をって、抱きつこうとしていたんだよ」
 そんなことを言うけれど、私が手を放してももうそんなことをしようとはしない。
「その様なこと、する必要があって?」
「もう、親愛の証じゃない」
「悪いけれど、そんな証はいらないわ」
 そうよ、私には親しい関係の人なんて必要ない。
「相変わらず冷たいなぁ、彩菜は。そんな目してると怖い人だと思われるわよ?」
「余計なお世話」
 私の目は多少つり目、それに背も百七十センチくらいとやや高めで声質も低めにしているから、この子に言われるまでもなく怖い、というか冷たい人だと周囲に思われている自覚はある。
「もう、彩菜の大きめの胸に顔をうずめたら気持ちよさそうなのに」
「…いい加減にしなさい」
 この、減らず口ばかり叩く少女は私と同い年で高等部二年の南雲優子。
 普通くらいの身長、ややウェーブのかかった髪を私より少し長め、つまり肩を少し越えるくらいまでのばした子で、黙っていればそれなりにかわいいのかもしれないけど、今の通り少し口が過ぎる。
「それにしても、二学期の初日からぎりぎりの登校とは、感心できないわね?」
 もう、あたりを歩く生徒の姿も見られない…この学園の生徒は基本的に時間をしっかり守る。
 なのに、この子ときたら…。
「もう、それは彩菜が起こしてくれないから…」
 そう、彼女とは高等部になってから同じクラスなだけでなく学生寮の部屋まで同室となった、いわゆるルームメイト。
 私のほうでは極力相手にしない様にしていたというのに、本当に馴れ馴れしくなって。
 そもそも、私が今この様な事をしているのも、元はといえば彼女が原因。
「目覚ましがあるのだから、自分で起きなさい。とにかく、もう教室へ戻るわ…貴女も遅刻しない様にはやくするのね、南雲さん」
「もう、そんな他人行儀な…」
 いや、私たちは赤の他人でしょう。


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