序章

「草鹿さん、たった今病院から連絡があって…お母さんが倒れて、運び込まれたそうです」
 中学校三年生、もうすぐ受験シーズンという頃だったわ、それは。
 午後の授業中、突然教室へやってきた教師がそんなことを言ってきた。
「…そうですか」
 それに対し、声をかけられた当の私は全くの無反応。
「あ、ああ、だから、今すぐ病院へ行ったほうが…先生が送るから」
「いえ、私はこのまま授業を受けますから、お気遣いは結構です」
 皆にとって私の対応はあまりに意外だったのか、先生は戸惑い教室はざわめきはじめた。
「ちょっと、親が倒れたのにあの反応って…」「やっぱり氷の心の持ち主だな、ありゃ…」
 そんなささやきが耳に届く…ま、皆の言う通りよ。
 私、草鹿彩菜は女の子にしては高めの身長に鋭めの視線などで以前から冷たい子といった目で見られていたし、それに人付き合いも全然しないから、あんなこと言われるのは慣れているし気にしない。
 …それに、私はあの人のために貴重な勉強の時間を削る気にはならないのよ。

 ―かつて、私には少し歳の離れた妹がいた。
 姉の私が言うのも何だけどとてもかわいい妹で、またとっても仲もよく、ずっと一緒にいられたらいいなと思っていた。
 けれど、私がまだ小学校低学年の頃、妹は突然他の家へ養子へ出され、しかもその後二度と会えることもなく、どこの養子へ出されたのかも解らないままだった。
「おねえちゃん、また会えるよね…?」
 別れの間際、車へ乗せられる直前の妹の泣き顔が忘れられない。
「またなんて、そんなのいや…これからも、一緒に…!」
 思わず追いかけようとした私の腕をつかんで止めたのは、私の母…。
「ど、どうして止めるの、離してよっ!」
 結局それが妹との最後の別れになってしまい、母は妹を養子へ出した理由を教えてもくれなかった。
 私たちの家は父をはやくに亡くし、貧しかった…だから母は妹を売ったのではないかとそう思ってしまい、それから私と母との関係は冷え切ってしまった。
 私はほとんど口をきかず、また母のほうも家を空けることが多くなったの。

「あれから、もう六年…か」
 結局私は最後まで授業を受けて、放課後…自分の足で病院へ向かいながら、過去のことを思い返していた。
 晩秋を迎えた外は少し冷え、私の心…それに私の過去の思い出たちみたい。
 二年前のあの子との別れ…あれだって、引越しがなければあるいはまた会えたかもしれないのよ…。
 二度の別れ…そのいずれも、母のせいでああなったのよ。
 私はもう、あんな人と一緒にいたくはない、だから…あの目標のため、もっと勉強をしなければならないのよ。
 そんな気持ちを抱いていたから、病院へ行き、そして母の臨終に間に合わなくとも、悲しい気持ちなどにはならなかった。
 ただ、中学生で保護者を失って一人で生活できるはずもなく、私は親類へ引き取られることになり、その前に家の整理をすることとなった。
 そんな中で見つけたのは、一通の預金通帳だったのだけれども…。
「…な、何よ、これは」
 開いてみると、預金残高がもうすぐ億の単位に達するほどになっていたの。
 貧しいこの家にそんな預金があるなんて、悪い冗談もいいところ…だけど、それは確かに間違いないみたいだった。
「どうなってるのよ、これは…って、これは、手紙?」
 通帳の入っていた引き出しに一通の手紙が入っていたので手にして中を見てみるのだけれど…それは、母の書いた私宛のものだった。
 内容は…私へ対する、謝罪。
 妹のことなどつらい思いをさせたうえ母親らしいことを何もできなかったけれど、私が将来貧しさで苦労することがない様にこのお金を残していく、と…。
 そういえば、母の死因は過労だったという…毎日ほとんどの間家を空けていたのは、これだけのお金を貯めるために働きづめだったから、だというの…?
 しかも、私名義の通帳の下に、こんな…もう死ぬことが解っているかの様な手紙を残して、どういうつもり?
 こんなこと、私に直接言ってくれれば、もっとはやく解り合えたかもしれないのに…!
「私は、なんて馬鹿なのかしら…!」
 母が私同様に口下手なことくらいずっと昔から解っていたはずなのに、こんな取り返しのつかないことになるまで、ただ避け続けてきて…。
「謝らないといけないのは、私のほうじゃない…!」
 でも、もう直接謝ることさえできなくって…私はただ、一人で泣くだけだった…。

 母が私に残した手紙には、妹が養子へ出されたときのいきさつも書かれていた。
 預金のうち五千万円はその際に渡されたものだというけれど、母がそれに全く手をつけていないことからも、お金目当てなどで養子に出したわけでないと解るわ。
 けれど、その様な大金を渡してきたことからも解る様に、妹の養子先はかなりのお金持ちで、またかなりの力を持った家。
 妹はあれだけ幼い頃でも誰から見てもはっきり解るほどのピアノの天才だった…その才能に目をつけたのがその家で、半ば強制的に養子に取られてしまったという。
 しかも、私の家の様な貧しい者と関わりがあるなんて思われたくなかったそうで、妹やその家に絶対に私や母が姿を見せてはならないし連絡もしてはいけない、なんてされてしまったそう。
 母には何の力もなくそれに逆らえなかったけれど、それに強く後悔し、その分残された私に貧しさで苦労をさせることのない様に…と、この様なことになったのだ。
 私と妹を引き離し、さらに母にその様な苦労を負わせた家…手紙には、その家の名と住所も記されていたため、いてもたってもいられなくなった私はそこへ向かってみたものの、あっさりと門前払いを受けてしまった。
 立派なお屋敷の前で私の応対をした家人は、妹は現在そこにはいないと言うとともに、もし私が妹に近づいたりしたら妹のこれからの生活に支障をきたすことになるかもしれない、などと言ってきたの。
 見え透いた脅迫…ではあったけれど、私は引き下がらずを得なかった。
 これまで一度も姿を見せなかった様な冷たい姉のせいで、平穏な日々を送っているであろう妹の幸せを、奪ってはならないもの。

 そんな私には、母が亡くなる前から抱いていた一つの目標があった。
 それは、県内でも屈指の難関であるとされる小中高一貫型学校の高等部へ入学すること。
 理由はといえば、学生寮が完備されている上に入学試験の成績優秀者上位二名には、入学後成績を常に四位以上に保つことを条件に学費等一切免除の特典を受けられるというのだから。
 家を出たいと思っていた私にとって、これほどよい条件の学校はないでしょう。
 さらに、母が亡くなったことで、かえってその学校を目指さなくてはという気持ちが強くなったわ。
 家を出たいどころか、その家そのものを失った…親類は明らかに私を厄介者扱いしてきたし、私もほとんど見知らぬ人といっていいその人たちに迷惑はかけたくなかった。
 かといってその人たちに母の残してくれたお金を渡す気にはならず、さらに自分のために使う気にもならなかった。
 そして、難関校としてだけではなくお嬢さま学校としても名高いその学校へ入学し、そしてよい成績を収め続ければ、いつかは妹の養子先の人々も私を認め、会うことを許してくれるのではないか…あり得ないことだとは思いながらも、そんな一縷の希望も思い浮かべていた。

 ―そして春、桜の花が咲きはじめた頃。
「私は、ここへやってくることができたのね…」
 奥に延々桜並木が続く大きな正門前に、私は立っていた。
 これまで貧しい生活を送ってきた私には場違いな、別世界かもしれないけれど、入る権利は確かに得た。
 目指した場所へやってきたのだから、迷わずに進みましょう。


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