第4.2章

「…ふぅ、やっぱり少し緊張します」
 ―昨日もやってきました事務所のあるビルの前までやってきた私ですけれど、入口前で一度足を止めて深呼吸…。
 昨日…オーディションを受けた日以来二度めの、そして声優さんになってからはじめてとなる事務所へやってきたときもとっても緊張しましたけれど、今日もやっぱりそれは変わりません。
 二、三回くらいでは慣れないっていうこともありますし、それに今日も灯月さんにお会いできると思ったら…。
「…なんて、い、いけません」
 ここへ何をしにきたのかといえば、もちろんお仕事をするためで…狭き道な夢を叶えられたのですから、もっとしっかりしないといけませんよね。
「…うん、行きましょう」
 もう一度深呼吸をして、ビルの中へ入るのでした。

「し、失礼します…」
 ちょっとおそるおそる、といった感じで事務所の扉を開いて中へ入ります…けれど。
「…あれっ? どなたも、いらっしゃいません?」
 事務所の中は静かで、人の気配は感じられません。
「少し、はやくきすぎてしまったでしょうか…」
 もしかするともう灯月さんがきているかも、少しでもはやくお会いできれば…なんて思ってきたんですけど、まだ予定の三十分前ですし、いなくっても仕方ありません。
 この事務所にはスタジオやダンスルームもありますから、どなたか他のかたがすでにいらっしゃるかもしれませんけれど、何もご用はありませんし、ましては他の声優さんたちにこちらから近づくなんてできるはずありません。
 ですから、ここは大人しく灯月さんかマネージャの如月さんがいらっしゃるのを待ちましょう。
 ということで応接スペースの一角に腰掛けましたけれど、とっても居心地が悪いです…こんなことでしたら、もう少しぎりぎりの時間にきたほうがよかったでしょうか。
 何とも落ち着かない気持ちのまま時間が過ぎるのを待って…。
「…あれっ、もうきてる子がいたんだ。おはよっ」
「…きゃっ!?」
 不意に声がかかってきたものですからびくっとしちゃいます。
「わっ、びっくりした…って、こっちが驚かせちゃったのか。ごめんね?」
 そんな声がするほうを見てみますと、スタジオなどのあるほうから一人の女の人がこちらへ歩み寄ってきていました。
「あっ、い、いえ、そんな…わ、私がぼ〜っとしていただけですし、どうか謝らないでください…」
 突然のことにどきどきしてしまいながらも何とかそう言います。
「そう? ものすごくびっくりさせちゃったみたいなんだけど…あなたがそう言うなら、そうしとくね」
「は、はい…」
「ん〜、でもやっぱり悪いなって思うし…よしっ、お詫びの印にこれあげるっ」
 そういって彼女はこちらへ何か細長いものを差し出してきました?
「い、いえ、そんな、お詫びなんて…」
「じゃあ、新人さんへのお祝い、ってことで」
「は、はい、それでも申し訳ない気がしますけれど、ありがとうございます…」
「うんうん、遠慮なんてしなくってもいいよっ」
 その人はにこやかにそう言ってくるものですから受け取るしかなかったわけですけれど、それはお菓子みたいでした。
 そんなその人は背は高めで髪は短めな、明るく活発な雰囲気をされた人だったのですけれど…あれっ?
「あ、あの、新人、って…私のこと、知っているんですか?」
「うん、そんなのもちろん。石川麻美ちゃんだよね」
「え、えっと、どうして…」
 私にはお会いした記憶がなくって戸惑ってしまいます。
「ん〜、昨日お互いに自己紹介した、って思うんだけど」
 でもその人はそうおっしゃってきて、よく解らなくなりそうになりますけれど…あれっ?
 昨日、それにお互いに、さらにここにいらっしゃるという事実…。
「あれあれっ、石川さん、もうきてたんですね…おはようございます」
 何かに気づきそうになったまさにそのとき、そんな声が届きました。
「えっ…あっ、灯月さん、おはようございます」
 現れましたのは今日もゴスいおよーふく姿がとってもかわいらしい灯月さん。
「あっ、山城さんもおはようございますっ」
「ん、おはよ、夏梛ちゃんは元気だね」
 灯月さんに今日もお会いできました喜びも束の間、彼女とあの人が親しげに挨拶を交わしているのを見て何だか複雑な気持ちになってしまいます。
 …な、何でしょうか、灯月さんたちは普通に挨拶を交わしただけですのに、なぜか胸が痛いです。
「石川さん、どうかどうかしましたか?」
「あっ、え、えと…灯月さんは、このかたとお知り合いなんですか…?」
 自分でもどうしたのかよく解りませんでしたから、そんなことをたずねてしまいました…と。
「…え、石川さん、それって本気で本気で言ってます?」「ううん、しょうがないよ、私なんてまだまだ全然だし、覚えられないのもしょうがないかな」
 灯月さんは少し驚いて、その人はそうおっしゃられます?
「あ、あれっ…? あ、あの…」
 そんなお二人の様子に私は不安になって、言葉が出なくなっちゃいます。
「石川さん…こちらのこちらのかたは山城すみれさんです。昨日自己紹介していただいたじゃないですか」
「山城、すみれさ…あ」
 灯月さんの言葉にようやく思い当たりましたけれど、同時に固まってしまいます。
 だって、その、昨日の自己紹介、というものは記憶にないながら、そのお名前は私も知っていて…。
「改めてよろしくね、麻美ちゃん」
「…ご、ごめんなさいっ」
 微笑みながら挨拶してくださるその人…山城さんに、私は深々と頭を下げます。
「えっ、石川さん?」「わっ、どうしたの?」
「その、私、事務所の先輩のかたのことが解らなかったなんて…」
 そう、山城さんはこの事務所に所属する声優さんでして、私の観ていたアニメなどにも出演されていらした、本来でしたらお会いできるだけですごいって思える人なんです。
「ううん、まだ二日めなんだし、それに私って表に出ないから解らなくてもしょうがないって」
 山城さんがご自身でそうおっしゃられた様に、このかたは私の記憶では一度も雑誌などで顔を見せたりされたことがないはずです。
 ご活躍されていない、というわけではけっしてありませんし、少し不思議…とにかく。
「で、でも、昨日自己紹介をしていただいたはずですのに、それでも解らなかったというのは…うぅ」
「わわっ、石川さん、しっかりしっかりしてください…!」「そうだよ、そんなの気にしなくってもいいから」
 お二人はそうおっしゃってくださるのですけれど、でも…その自己紹介のことを覚えていなかったのって、完全に私が悪いんです。
 そのときの私って灯月さんのことで頭がいっぱいで、それでそのときのことが上の空になっちゃっていたのですから…。
 それを思うとやっぱり自分のことがとっても情けなくなってきちゃって…涙があふれてきてしまいました。

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